金緑石の腕輪
第ニ期:二度目の巡りで
(孤児院に戻る前に人気の居ない平野で彼女は座り込んだ。知られてしまった。言葉にしなくても、伝わってしまえば同じ事)
き、きっと、逃げてしまう…。
(誰がだろう。彼が?彼女が? 少なくとも、今逃げたのは彼女だ)
ど、どうしよう…わ、わたし、ひっ…
(膝に顔を埋めてひとしきり泣く。戻るまでに腫れを戻さなければ、アルバに心配されてしまう。落ち着くまでそこにいると、漸く立ち上がり、ゆっくりと歩き出した)
孤児院へと戻ったアノチェセルを迎えたのは、サファイアという女性。
シスターの姿をしているが、深くスリットの入ったそのスカートからは太ももが扇情的に覗き、
およそ聖職者という雰囲気とは程遠い。
それもその筈、彼女はアノチェセルが夜の酒場で、……テルプと共に歌ったあの酒場で、
客の視線を釘付けにして踊っていたダンサーだった。
訳あって、身を隠さねばならぬ状況に陥ったらしく、アノチェセルとの縁で、ここに住み込んでいるらしい。
ないって言えるのかしら?
アタシは逃げるのは嫌いよ。
逃げるぐらいなら奪い取るわ。
アンタは逃げたことでチャンスを逃したのよ。
あー。勿体無いもったいない。
アタシならその隙狙って落とし込むわね。
(言うだけ言うとつかつかと歩いていってしまった)
部屋に戻りベッドに倒れるように転がる。 左腕を見れば、ブレスレットに嵌った石は、今は燭台の光で赤くなっていた。 そっと撫で、今までのことを思い出せば、彼女の唇から彼の名前が零れ落ちて。 …彼女の瞳からも涙がひとつ、零れ落ちた。
さて。次の日。 孤児院の前には、腕輪を身に着けたままおずおずとやってきたテルプの姿。
(孤児院の周りをうろうろと、たまに中をちらりと覗き込んだりしている。自分から声をかけるのを躊躇っているようだ)
あ、うん…お邪魔します…。
(おずおずと周りを伺うように)
アノチェ、いる?
(躊躇が、見て取れる)
……俺ね。
アノチェが悲しい顔してるの、嫌なんだ。
────。
(しばしの逡巡の後、小さな声で)
教えてくれると、うれしい…。
…痛いのも、嫌だって、俺言ってるじゃん…。
(そう言いつつも、抵抗はせず。衝撃に備えて口をしっかり閉じて)
……ごめんな。
(ああ、届かない身長が恨めしいと、アルバは背伸びをして。がしっ!と両の拳でテルプのこめかみを挟むとグリグリしだした)
おまえなーーー!なんつー顔してんだよ!
そんなんでアノチェに会うつもりかボケぇ!!
俺より年上だろ!しっかりしろよ!
(しっかりと目を見据えて、さらに続ける)
…俺はあんたのこと、逃げるし忘れるし正直腹が立ってるよ。
でもあのアノチェが認めたんだから、俺は「信じる」事にしてるんだよ!
ちったぁ応えろよこのアンポンタン!
(すっと拳を下ろすと二階を指差した)
二階の右奥の部屋!鍵開いてる!はよいってこい!
(アルバさんの勢いに、はじかれるように回れ右)
う、い、行ってきます!
(「信じる」という言葉がじわじわと)
──殴られるより、痛ぇわ…。
(その痛みに押されるように、彼女の部屋へと、足を、進めた)
(その姿を見送ると溜息をつく。我ながらお人よしで、甘いと思う)
ああ、でも…おじさんも、そうだったよなぁ…。
(棚引く赤い髪、はためくマント。優しくて強い、金の瞳。
それに寄り添うように…そこからピントがボケたように隣の女性の姿が思い出せず。思い出に暫く浸り、そして現実にもどる)
あー…酒のみてぇ気分だ…。
教えてもらった、孤児院の二階。彼女の部屋の前。
(ごく普通の扉がひどく重く大きいものの様に感じる。
しばらく、立ち尽くして、扉に触れてみて。意を決しノックを、コン。コン。と、2回。)
…アノチェ…。居る? 俺、だけど。
アノチェ、ねぇ、開けていい?
ふとんつむり。イラスト:とある孤児院より さま
(同じ様に、扉の前で動けずに)
あの、さ。あのさ。
あのさ、俺、今日さ! 風呂、入ってきたんだぜ!
(突然何か言い出した)
いつもは、俺、すごく嫌なんだ。
鈴の音がないと、不安で、仕方なくなるんだよ。
だけどさ、アノチェが居てくれたら、俺、大丈夫だったんだ。
──この石、ね。
アノチェが見つけてくれたやつ。これ持ってたらさ。
アノチェが、同じ様に持っていてくれてるって思ったら、
繋がっているみたいで、君の音がするみたいで
すごく、すごく嬉しかったんだ。うれしかったんだよ。
ねぇ、頼むよ、顔見せて? 声聞かせてよ。歌が聞きたいよ。
ねぇ、入っても、いい?
(被っていた布団から出て、ベッドから降りる。髪の毛はぼさぼさで瞼も腫れているだろう。涙の跡はそのままで酷い顔だ。でも。声が聞きたいという。歌が聞きたいと…顔が見たいと。その言葉を聞いただけで心臓が煩く跳ねた。そんなことをテルプに言われて応えないわけがない。そっと、ドアノブに手をかけて、小さく、扉を開けた)
…うん。
アノチェ…!
開けられた扉にぱっと笑顔を浮かべるが、その涙の跡を見て言葉を失くした。
アルバが、その半身がいなくなった時にだって、気丈に笑っていた彼女だったのに。
君の笑顔が消えないようにと、たくさん歌って。お守りの音も君へと分けて。んなの意味が無いと思うくらいに彼女は強いと思っていたのに。ねぇ、どうすれば笑ってくれる? 忘却の歌をうたおうか? 違う、違う、そうじゃない
……アノチェ、ね、ありがとうね。お揃い、たくさんで、嬉しい。
ブレスレットと、自分の鈴とを指して、アノチェの髪に触れて、少し微笑む。
(来客を招き入れて、パタンと扉が閉まる。微笑んでくれたのに、笑って返したいのに、笑顔を作ろうとすればするほど泣きそうになる)
…お、お礼を、いうのは…わ、私…だよ…。
そ、それに…ご、ごめんね…。
わ、私、怖くて、逃げ出したの…。
ど、どんどん、き、気持ち、おっきくなって、ど、どうしたらいいか、わ、わかんなくて。
て、テルプを困らせ、たく、ない、とか、つ、伝えたら逃げちゃう、とか、う、うそばっかり…。
わ、私が怖いだけ、だった…。
だ、だって、つ、伝えたら、か、変わっちゃう…。
も、もう「忘れてもいいよ」なんて、言えないよ…!
(宵闇の瞳に、また雨が降る。目の前の人を想う、雨が)
て、テルプ…。わ、わたし…。わたし…。
ねぇ、ねぇ、アノチェ。ねぇ、聞いて。
自分自身で自分の気持ちをはぐらかしていたけれど。もうとっくに知っていた。俺は、君が
逃さぬように、両手で頬を挟み、こちらへと顔を向けようとする。濡れた目に真っ直ぐ見つめられたら、もう逃げ場なんてなくて。 自分自身で、それを断ち切ろうと
歌を、紡ぐ
それはありきたりな愛の詩で)
愛してる。愛していると何度もリフレインされる甘いメロディー
…君と一緒に歌ってから、俺はもうずっと恋の歌しか歌えない。
何をしてても、どんな景色を見ていても生まれてくるのは君への歌ばかりだ。
ねぇ、一緒に、歌って。音が、ずっと、足りないんだ。
君の声が、欲しいよ。君じゃなきゃ駄目なんだ。俺だって、ずっと。
切なそうに表情を歪める。もう、戻れないのだと。俺なんかに、恋して
ねぇ、ほら、俺の歌覚えて。…なぁ、一緒に歌ってくれ。
(繰り返す、繰り返される愛の言葉を、歌う。目を逸らさぬように)
彼の唇から甘い歌が紡がれている。それも自分を想った。耳に慣れない言葉が体中を駆け巡って、胸の奥で甘くときめかせる。彼の言葉に、自分と同じだと…想っていたと)
て、テルプ…私、想い続けていいんだよね…。伝えても、いいんだよね…。
(アルバは言葉も音だと言った。サファイアは逃げるなと言った。だから)
だいすき。だいすきだよ、テルプ。
(「なんか」じゃない。私は、貴方が大好きだから。雨は止み、瞳に虹がかかる)
う、うん…。歌う…!
一緒に、歌って…!
(彼の歌にあわせて、彼女も歌った。目を逸らさず。二つの歌声は、一つの歌に。何度も何度も、愛していると)
イラスト:とある孤児院より さま
(そう、その笑顔が、見たかったんだ。
繰り返される言葉の度に、想いが大きく、溢れてくる様で、その衝動のままに顔を寄せる)
ねぇ、俺も。……いいのかな。
(歌の間に紡がれる言葉)
俺のものにしちゃってもいいの?
(彼女の唇から生まれる歌声が自分の唇へと届くのを感じながら)
ねぇ。こんなに幸せで。
たくさんのもの、手に入れて、幸せで。笑ってて、
いいのかな。いいんだよね。
──いいんだよ。ね。
(いつも、自身に言い聞かせている言葉を。縋るように、両手に力が込められる)
(その言葉を全て理解するには、彼女は少し幼なかった。それでも。少し苦笑して)
テルプは…か、悲しいの嫌なのに、う、嬉しい事も尻込みしちゃうんだね…。
う、うん…いいよ。
わ、私を、て、テルプに
あげる…ね。
(込められた手にそっと自分の手を重ね、真っ赤になりながらも、そう答えた)
(歌が、途切れる)
イラスト:かげつき
(歌が途切れた理由がわからず、ぱちくりと瞬きをした。
彼の顔が間近にあって、いつも歌を口ずさむ唇同士が重なり合っている。瞬のような、長い時間が流れて、そうして唇が離れ、また目が合う。途切れた歌に追いつくように体中の血が駆け巡った)
…て、てるぷ…あ、あの…、え、えっと…。
(心臓の音が煩くて、歌になんてなりやしない)
(震えるようなその声を止めるように何度も唇を落として、離れる度にまた歌う。愛してる、愛してる)
…ノチェも、歌って?
(唇が触れたまま、歌が紡がれて、また途切れて、何度も。あいしてる。あいしてる。)
俺のために、歌って…?
…て、てる、んっ…!
制止の声も彼の唇に吸い込まれてしまう。歌と、口付けの音の、繰り返し。
「俺のために、歌って…?」と求められる。
うん…あい、してる。
(あいしてる。あいしてる)
(彼の為に歌を繰り返しては、合間の口付けを受け入れた)
(どれくらいの時間そうしていたのか。もっともっと、と貪るような衝動を沈めるように、ゆっくり身体を離して)
──あいしてるよ。
(自分の言葉で。ちゃんと、伝わっただろうか。彼女の紅潮した頬を優しく撫でる)
ごめんな。泣かせてごめん。ありがとうな。
俺、多分何よりも、アノチェの悲しい顔が、…好きじゃない。
…笑ってな?
(少し息が上がった頃、名残惜しく身体が離される。彼の言葉が頭の中で鳴り響いている。「あいしているよ」と)
うん…。…うん!
わ、わたしも、あいしてるよ…!
(まだ少しだけ理解の足りない言葉を、それでも彼の為に告げる)
う、ううん、わ、私の方こそ、ご、ごめんね…。
だ、大丈夫、わ、私今日のこと、ぜ、絶対忘れないもの。
き、きっと、悲しくたって、思い出せば、わ、笑えるよ…!
あ、ありがとう、テルプ。だいすき。
(嬉しそうに笑う笑顔は、ほんの少し大人になった気がした)
うん。きっと俺も、そう。
きっと…どんな悲しい事だって…、今日を思い出したら。
だってこんなに、幸せなんだもん。きっと、大丈夫。…だいじょうぶ。
(笑ってくれた、愛しい彼女の頭を撫でて)
行こうか。…アルバも、心配してたみたいだし。
──あんま遅くなると、俺っち別の意味で殴られちまう。
(いつもの調子でにかっと笑うが、その瞳は、愛しい人を見守るような優しさに満ちたそれだった)
…うん…だいじょうぶ。大丈夫だよ、テルプ。
(忘れる事に慣れてしまった彼に「だいじょうぶだよ」と。子供をあやす様に、背伸びをして彼女も彼の頭を撫でた)
うん、わ、私もアルバに謝らないと。
…出口まで送るね?
ん、謝るなら、一緒に行こうか。
(逆効果かもしれないけれど、と、意地の悪い気持ちもありつつ)
(アルバにも感謝を告げておきたいと思ったのも事実。…それは口に出さぬままかもしれないけれど)
ああ…言わなくても分かる…その顔を見れば分かるよ。
(アノチェの隣にいる男の背中を蹴ったのも自分だ。けしかけたのも自分。…バカじゃないかと思う。逃げるのがお得意のこの男なら、そう仕向ける事だって容易かった筈なのに)
…別にいいよ。アノチェが笑ってくれるなら。
(やれやれと溜息をつくと、隣の男を見た)
……世話、かけたな。
(目が合って、居心地の悪さにポリポリと頭を掻いたりして)
中途半端な事してたら、…ブッ殺しに来てくれや。
あ、アルバ…!も、もう…。
ご、ごめんね、テルプ…。
(孤児院の出入り口まで一緒に向かう)
き、気をつけてね…?
じゃ、じゃあ、また…。また、会おうね…。
(名残惜しそうに…最後に少しだけその手を握った)
…ん。
(ちらと周囲をうかがった後、握られた手を引いて、額に触れるようなキスを)
ん、じゃ、また、ね。
(照れたように、ぱっと背を向けて、駆け足でその場を離れて。姿が見えなくなる前に振り向き、大きく手を振った)